心拍数があがる。
早坂が言った言葉、東吾が返した言葉。
それは、笙子の想像を確信に変えるのに充分なもの。
東吾は婚約者を待たせていながら平気で、私を・・・。
今度こそいてもたってもいられなかった。
笙子はセレモニーホールを出ると、タクシーを停めた。
「青葉台まで。」 告げた先は東吾の部屋。
東吾に会う前にしておかなければならないことがある。
全ての痕跡を消すつもりだった。そうしなければ、東吾が婚約者をここに連れてくることが出来ない。
別の女性の影に寛容になれる人はいない。それに東吾にだけ責任をおしつけて困らせるわけにもいかない。ルール違反はしたくない。最初に誘ったのは私なのだから・・・。
この前は笙子の荷物だけを持ち帰った。が、後から思い出したものがここにある。
笙子はまっすぐキッチンに向かった。そして、自分で買いそろえた食器類を全部取り出す。
マグカップはシンプルでペアだとは認識できないデザインを選んでいた。それでも2客しかおいていないから必然的にペアと分かってしまう。笙子はそれを1客だけではなく2客とも取り出した。置いてはいけない。2つ残していくのも、別の誰かに使われることになるのにも耐えられそうにない。
ビアグラスとワイングラスは6脚セットを購入していたので置いていくことにした。お箸と箸置きのセットもそのまま置いていこうとして止めた。男の一人暮らしで、箸置きまでセットされたお箸が整っていること自体おかしいと思えたから。
結局、キッチンには無難なお皿とグラス、どこにでもありそうなお箸と当初からあった唯一つのマグカップが残った。
笙子は持って帰るつもりの食器類をキッチンカウンターに並べた。東吾を知るには少なすぎた時間。東吾を感じるのには充分すぎる時間をここで過ごした。
ゆっくりと一つずつ、食器を包んでは紙袋におさめていった。
一つ一つに2人の時間があって、それらを今封印しようとしている。同時に笙子の中でくすぶっている東吾への諦めきれない思いも閉じ込めていった。
2つ並んだマグカップが最後に残った。このマグカップには、何度も一緒にむかえた朝の数だけ思い出がある。それを封印するのが一番こたえた。
いっそ割ってしまおうか・・・。そう思った瞬間、マグカップは笙子の手から離れた。
大きな音を立ててそれは床に落ちる。見下ろした足下には、大小様々な白い陶器の破片が散らばっている。
壊れてしまった思い出。
これで良かったんだ。何も残らない方が、何も思い出さなくてすむ。
笙子は1つ残ったマグカップも落として割った。
白い破片の渦の中心で、しばし涙を噛み締めて立つ。
これで思い切れる。
ギュッと瞼を閉じ、ゆっくりと見開いた時、笙子の涙は止まっていた。
これで東吾とも向き合えるかもしれない。
部屋の中は、先日笙子が出て行った時のままで、東吾が戻った気配がない。一体いつ帰って来て、どこで喪服に着替えたのかもわからない。
でもそれすらも、笙子が考えていいことではなくなった。東吾は笙子のものではないし、笙子のものであったこともない。すれ違う筈の一時が重なってしまっただけの存在。
それもこれも笙子の悪行がもたらした結果だ。そう思うと泣くに泣けない。
思い出の残骸を片付け、笙子は部屋を出た。
1階までおりてから、鍵を新聞受けに入れてくれば良かったと思い、立ち止まった。でももう、あの部屋には行きたくない。ただドアの前でさえも。
衝撃的な出会いから半年過ぎて、笙子は半年前と同じように出て来た部屋を見上げた。
最初の時はギラギラと照りつける太陽がまぶしい夏の日だった。今見上げる青空は、鮮やかでありながら距離を置く、冷たい果ての世界のよう。それを照らす太陽の光さえ冷たく感じる。
終わり、the end.
駅に向かうか、タクシーを拾うか考えながら通りに出た。
ちょうど目の前にタクシーが停まったので、それに乗ろうとして足が止まる。
降りてきたのは、東吾。なんて間の悪い・・・。
「笙子、待っていろといったはずだ。」
「そうだったわね。ごめんなさい。」
「どこへ行く気だ?」
「家よ。」
「話があると言っただろう?」
「そうね。」
「来いよ。」
東吾は、笙子の腕をつかみそのまま部屋に向かおうとする。
「東吾、待って・・・」
「何?」
「私、ちょっと疲れてるの?明日にはできない?」
東吾の部屋に入りたくなかったから、帰りたいと暗に告げる。
「あとで送るから。」
「それなら今送って。話なら車の中でもできるでしょう?」
「笙子?どうかしたのか?」
「別に。」
東吾が、まっすぐに笙子を見据える。それからいぶかしむように眼を眇めた。
「わかった。」
「送ってくれるの?」
「ああ、但し着替えさせてくれ。」
「ええ。」
「それじゃ、一緒に来い。」
東吾はそれ以上話すことなく、笙子を引っ張っていく。ここで意地になって拒否しても無駄かもしれない。それに着替える間だけなら、待てる。
きっと東吾はキッチンに行ったりしない筈だから、笙子の荷物の中身を知るのは、笙子が後で告げる時が来てからだ。
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社葬の間は皆ひかえることにしたらしい。
笙子は控え室の片付けも終え、しばし、人もいない音もしない空間で物思いにふけった。
頭に浮かぶことと言えば、当然のごとく東吾のことであり、今までのこと、そしてこれからのこと。
恵美が聞き出したことが正しければ、エリザベスには現地に恋人がいるという。
その恋人と派手なけんかをして、東吾との打合せを東京でしようと言い出し、無理矢理、本社に来たらしいこと。
また、藤崎社長には子供がなく、後継者選びが業界内で注目されているらしいこと。
今回の社葬は、その意味でも注目が高いと言うことも聞かされた。
事情通の恵美がもたらしたそれらがどうこうとは思わないものの、東吾のことを考えずにすむなら、その方がありがたい。
虚しい関係を終わりにしようと、あの日最大限の努力で決意していったのに、あっさりとかわされてしまい、どこかで気力が抜け落ちている。
もう一度あの決意を固めるのに苦労しそうだ。東吾が戻って来た今となっては、それを先送りすることもできない。
ましてや今日、あの男から逃れられるとも思えない。
でも、あの女性が誰なのかにもよる。
社長の親族である女性。年齢は笙子とあまり変わらないように見受けた。ハッキリと顔を見た訳ではないけれど、育ちの良さが伺える仕草や立ち居振る舞いには気づいた。東吾の・・・恋人ではない、とは言いきれない。
なんだってありうるのだから・・・。
笙子が終わりにしようと思っている側から、東吾も同じことを考えていたって不思議ではない。東吾の執着は、いずれ終わる。愛情があって始まった関係でもなければ、それを育む関係でもなかった。
なのに、自分だけ本気になってしまった。
そう思うと、胸が苦しい。息を吸おうとした体の奥底から痛いような締め付けを感じる。
今週ずっと考えないようにしてきた、闇を感じる。このまま奈落の底に落ちてしまうのではないかと思えるような恐怖感。ヒタヒタと押し寄せる闇が笙子を飲み込もうとしている。
ダメ、ここで負けてはいられない。東吾のまえで取り乱して泣き叫ぶようなバカな真似をしないためにも、しっかりしなきゃ。
笙子はあらゆる感情を奥底に押し込めて、何も考えないことに集中した。
漏れてくる感情に一枚ずつ扉をつけるかのようにして閉じ込めていく。
やっとそれに成功したと思えた頃、人のざわめきが聞こえてきた。
1時間近く葛藤を繰り返していたことに驚きながら、笙子は新たな仮面で、戻って来た人々に対応をする。
親族控え室にいる人達の殆どは、このあと予定されている精進落しの懐石に向かう。
それを見送って笙子の役割は終わるはずだ。
「笙子さん。」
「はい。」
「ご面倒おかけしましたね。」
社長の長姉孝子は友好的なタイプで、昨日から随分と笙子に屈託なく話しかけてきた。
「いいえ。」
「あなた、このあとのお食事にいらっしゃい。」
「いえ、とんでもないです。」
「いいのよ、遠慮しなくても。早坂には言ってあるから大丈夫よ。」
冗談ではない。親族一同が会している席になどつきたくはない。
「あなたの分は、別室に準備するから大丈夫よ。実はね数人別席なの。年寄りと同席するのを嫌がっているものがおりましてね。だから安心して来て頂戴。」
「いえ、やはり遠慮させてください。とても無理です。」
「そうお?じゃあ、後でお礼をさせてね?」
「それも遠慮させて頂きます。これも仕事ですから。」
「まあ、固いのね。では、ひとまずそういうことに致しましょう。」
あまり親しくなっていい相手でもない。違った環境でならば楽しい人だろうとは思うが、やはり立場上困る。
笙子の対応に仕方なく同意した様子の孝子は、今度は東吾が伴って来た女性に話しかけていた。
「まりか?貴女達、いつまで婚約しているつもりなの?」
「いつまでって・・・それは・・・」
「いい加減に結婚なさい。」
「正式に婚約したわけじゃないもの。」
「何言ってるんですか?もう20年はたってるわよ。あの子は断っていないし、一度もやめるとは言ってないわ。だから有効よ。」
「でも・・・」
「あなただって、やめると言えないでいるくせに。」
「伯母さま・・・」
婚約・・・。
まりか、と呼ばれた女性には婚約者がいる。
それが・・・東吾でない確率って一体何パーセントなのだろう。
社葬の親族控え室に親族である女性と一緒に入ってきて、親族の誰もが存在を疑わなかった男。社長の姉に「東吾」と呼ばれていた男。
倉木東吾には婚約者がいた。それも20年以上も前からの約束。
ああ、でも東吾ではないのかもしれない。いえ、それは願望に過ぎない。
全員を送り出し控え室に戻った笙子は、今は東吾に会えない、という強い思いにとらわれた。
恋人どころか、婚約者のいる男だったなんて、あまりにも酷すぎる。
それにあまりにも惨めすぎる。
またしても誰もいなくなった部屋で、こぼれ落ちた涙を慌てて拭った。
ここでは泣けない。今はまだ泣けない。
コートを持って外に向かった。通用口近くでコートを羽織るために立ち止まった笙子は、すぐ側の休憩室の中の会話を聞くはめになってしまった。神経が麻痺するほどおかしくなっていたのに、その会話はスムースに笙子の頭の中に入り込んで来た。
「いい加減にしないと、捨てられるよ。」 早坂の声だった。
「それはない。」 言い切った声は東吾。
「余裕だな。」
「お前こそ、早くしたほうがいいんじゃないか?」 これは知らない声。
「何言ってるんですか? 遅れる原因をつくっておいて。」
「根本的にその要因になったのはお前だろう。」
「違いない。」
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「はい。」
「ごめんなさいね。お仕事の邪魔をして。」
「いいえ。で、私は何をお手伝いすれば宜しいのでしょうか?」
笙子はそれから、なぜか3人の携帯電話を預けられ、かかってくる電話の対応を依頼された。3人でいると常に誰かの電話が鳴って、全然打合せが終わらないという理由で、臨時秘書が必要だったらしい。しかも次から次へと電話が舞い込む。お悔やみやら社葬のこともあれば、次のお茶会のことだの、クリスマスカードの確認だの、公私全般にわたり様々な内容で、3人分は充分すぎる量だった。
とりあえず、明日の本番を待つだけと確認できたのは夜9時をまわったあとで、笙子は思いっきり疲れていた。こんなに人と会話したことなんてなかった、というくらいたくさんの人と会話した。それが単なる伝言のやり取りであるにも関わらず、非常に疲れたのは言うまでもない。
社長の実姉3人を無事に送り出した笙子は、控え室でグッタリと座り込んでいた。
外まで見送った早坂が舞い戻る。
「笙子さん、お疲れさま。ご飯奢るよ。今日こそね。」
そういうと、笙子のコートを勝手に持って部屋を出て行く。
随分と強引じゃない? 確かにそうでもしないと、いつもの私なら断るだろう。が、今日は疲れすぎている。神経を使う会話はしたくない。だから黙ってついていった。
向かった先は西麻布。一見して民家のようにも思える玄関、小さく掲げられた木製の表札に目指す屋号が書かれていて、そこが店だとやっとわかる佇まい。
中は柱や梁の古さが重厚に感じられるまま残してあり落ち着きのあるしつらえ。二人は2階の一室に通された。4畳半ほどの部屋に2人用のセッティング。和やかで気取らない雰囲気が心地いい。
「笙子さん、お好みは?」
「お任せします。今は何も考えられない。」
「素直な笙子さんって、あぶなそう。」
「なによ、それ。」
「おっと、やぶへび。」
「私、疲れているの。まともな会話ができるとは思わないで。」
「いいよ。今日は僕が話す。」
「この間だって、勝手に話してたと思うけど。」
「そうだった?」
テキパキとオーダーをすませた早坂は、笙子を真正面から見つめながら、しばらく考え込んでいた。
「どうかした?」
「いや、話そうと思ったけど、やめることにした。」
「・・・」
「明日のお楽しみがなくなる。」
「勝手にすれば。でも明日は本番よ。忙しくてお楽しみなんて味わえないんじゃないの?」
「いや、そんなことない。」
やけに自信たっぷり。
「伯母さま方は、明日9時には入る。」
「8時半には参ります。ご安心ください。」
「優秀な秘書で助かるよ。」
「言っときますけど、この会社に勤めて今まで、こんなに外部の人と会話したことなんて一回もないんですからね。」 早坂が相手だと、何かが狂う。自分のペースも保てないし、ついつい、本音が出てしまって内心驚きもした。
「それは笙子さんが、ひきこもりを決め込んでいたからでしょう?」
「ひきこもり、って・・・」 まあ、それに近いかも・・・
食事は家庭料理を懐石風にアレンジしたコース料理で、とてもおいしいものだった。
明日も早いからと、早坂は早々に切り上げる。この辺は社長秘書だなと、思う。
断っても無理そうな気がしたので、黙って送られた。
翌日は快晴で、時折吹きすさぶ木枯らしも、さほど寒さを感じさせない。
セレモニーホールでは既に葬儀社の人達が気ぜわしく動き回っている。
早坂は、前日同様に受付に近い場所に陣取り、何事か打合せをしている。笙子をみとめて軽く目配せをしてきた。笙子も軽く会釈をして中に入った。
そういえば、早坂が社長の家族と親しい理由を聞かなかったような気がする。ご家族に尋ねるべきことでもないし、早坂も何も言わなかった。それが今日わかる秘密なのだろうか?
そんな無意味な考え事も、集まり始めた人達への対応で忘れ去られてしまった。
10時からの葬儀。親族用控え室は50人は入る筈なのに、9時を過ぎたばかりで既に一杯に感じられる。名前を覚えるのは不可能だと自覚したので、途中で諦めた。
会葬者も入り始めた9時半過ぎ、控え室は出入りする人達の数がいきなり増え始め、まるで通勤電車のようになった。笙子は入り口近くの片隅で、相も変わらず次から次へと鳴る電話に対応していた。メモを整理して目を上げたとき、入り口に立った人影に驚いた。
ウソ、なんで・・・。
現れたのは東吾。当然のことながらきちんと喪服に身を包んでいる。が、ここは親族用だ。東吾が社長の身内だと言うの?
疑問が浮かぶ間もなく、東吾の陰に女性が立っているのがわかった。どう見ても連れ立って来たとしか思えない。顔はよく見えなかった。その女性が3姉妹のもとへ駆けつける。
「伯母さま。」「ああ、間に合ったのね?」
「ええ、ごめんなさい。もっと早く来られなくて。」「東吾に送ってもらったの?」
「そうなの。」
それ以上の会話は、また入った電話で聞くことはなかった。
東吾が伴った女性が親族。で、彼女と東吾は・・・。
笙子が伝言を整理している間に、部屋はいきなり空っぽになった。
時間は9時50分。あと10分で社葬が始まる。
最初から無人の部屋であったわけではないとわかる、あちこちに残された茶器やコーヒーカップ、乱雑に放置されたようなテーブルと椅子、笙子は当たり前のこととしてそれらを片付け始めた。
その視界の片隅で、入り口に人が来たのも勿論すぐに気がついたし、同時に五感が騒ぐように察知した。来たのは東吾。
「笙子」
なんで現れるのよ。さっきほんの少ししかいなかった筈なのに、私に気づいたというの?
「なに?」
「後で話がある。」
「そう?」
「勝手に帰るなよ。」
「どうせ帰ってもくるんでしょう?」
「よく、わかってるじゃないか?」
「手間を省いてあげるわ。」
「素直に待っているといったらどうだ?」
それだけ言うと東吾は部屋を出て行った。当然のように返事も聞かずに。
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もしかしたら東吾がいない間に辞めるべきなのかも知れない、とまで思う。
でもそれには少なからず抵抗がある。こんなことなら、愛人関係なんてもっと早くに解消しておけば良かった。
悩むことに疲れ果てた笙子は、精神的な疲労を解消しきれないまま昨夜をやり過ごした。
そして今日、いつもより遅く出社した。それでもまだ8時半。
東吾が出張でいない今は、オフィスには誰もきていないはずだった。
なのに、ドアをあけるなり笙子の目に入ってきたのは、エリザベス・ジョーダンの姿。東吾の席に座り、そこで既に仕事をしている。
なぜ、彼女がここにいるの?
昨日、東吾と一緒に中国に戻ったのではなかったの?
東吾は昨日の朝、電話で呼び出されて急いで外出した。
まだ、半分眠っていた笙子に「ついでだからこのまま出かける」と囁くと、出張の準備をし、慌ただしく出て行った。
てっきり彼女が呼び出したのだと・・・思っていた。
一人残された部屋で、笙子はうつろな思いで半分空っぽになったベッドをみていた。
愛人を抱いたベッドから、恋人に呼び出されて出かけるオトコ。
何とも滑稽な自分。そう思うと、東吾のぬくもりが残るベッドの中にいて、体の芯から凍り付きそうな感覚にとらわれる。やはり、あのオトコは残酷だ。
ベッドから出た笙子は、昨夜の余韻を引きずりながらバスルームに向かった。
夜半に抱き寄せられてこたえた体には、いくつもの印が残り、鏡に映る肌はどこかなまめかしい。
その全身が写る鏡に背を向け、あちらこちらに残る洗っても消せる筈のない東吾の痕跡をシャワーで流していく。
そして、前夜のうちにまとめておいた荷物を持ち、東吾の部屋を後にした。
なのに今、目の前にエリザベスがいる。
電話は別の人?
笙子を見とめたエリザベスが、ほとんど表情を変えずに「Good morning」と挨拶をしてくる。それに答えながら、デスクについた。すぐに恵美がオフィスに現れた時は、ちょっと安堵した。
「社長のお母様が亡くなられたって。」 開口一番の恵美の言葉はそれ。
「社長の?」
「昨日ですって」
「そう・・・。」
「社葬は金曜日よ。」
「社葬なの?」
「それはまあ創設者の奥様で、藤崎一族のゴッドマザーですもの。」
数年前までアメリカにいて、戻ってからは研究所勤務だった割には、恵美は事情通。
「そうなの・・・。」
恵美は笙子の返事を待たずに、怪訝な顔をしているエリザベスに事情を説明し始めた。
英語でなされる早口の会話には全くついていけない。
ただ、所々聞きかじった内容によれば、エリザベスは今日の夕方帰るらしいことがわかった。そのときに笹本も一緒に行くことになっているらしい。
東吾と笹本を欠いたプロジェクトは、翌日から静かなものだった。
それを見越してか、総務から笙子に社葬の手伝いの依頼が舞い込む。
「いってらっしゃ〜い」と手をヒラヒラさせて送り出す恵美を残し、笙子は総務から教えられたセレモニーホールに向かった。
青山にある数百人は収容可能なホールは、3分の2ほどパイプ椅子が並べられ、両壁面には生花や供物が整然と並べられている。それはこれからどんどん増えるのだろう。
明日の社葬はさぞや壮観だろうと思えた。
「笙子さん。」 当然のことながら、ここで陣頭指揮をとっているのはこの男。
「早坂さん。」
「笙子さんもかり出されたの?」
「ええ、そうみたい。」
「担当は言われた?」
「ええ、控え室を頼む、と言われたのだけど。」
「・・・・」 早坂は一瞬驚いたような顔をした。それから真顔に戻る。
「笙子さん、いきなり驚かされるのと、僕の秘密をもう一つ知るのと、どっちがいい?」
「いきなり何?」 相変わらず、不可解なことをいう。こんな時だって言うのに。
「どちらでもお好きなように。」
「そうはいかない。さ、選んで。」
「第三の選択肢はないの?」
「ない。」
きっぱりと言い切る早坂を、怪訝な眼で見上げた。喪服の黒がなまめかしいのは和服の女性だけかと思っていたが、男でもそういうケースはあるらしい。瞳さえ間近に見なければ、早坂はやはり見栄えのする美丈夫だ。
その美形の顔を眺めながら、ふと、早坂の秘密は既に使い道がないことを思い出した。
「最初の秘密さえ、もう用済みなの。今更あらたな秘密なんて、あっても無意味だわ。」
「じゃあ、聞かない?」
「ええ、無用よ。」
「そ。じゃあ、控え室に案内する。」
「・・・」やけに諦めのいい早坂の態度がひっかかる。
控え室は2つあり、1つは親族用。もう1つは来賓用。笙子はどちらとは指定されていなかったのに、早坂が親族用の部屋へ連れて行く。
社長秘書なのだから、まあ彼の指示に従っていれば問題はないだろうと思えた。
部屋には親族とおぼしき年配の女性が3人いた。
何かのパンフレットを見ながら、葬儀社の人間と会話している。その中の最も年配そうな女性が二人に気づく。
「智ちゃん、そちらの方は?」
「ご所望の、臨時秘書です。」
「あら、早速ありがとう。」
早坂は、智ちゃんと呼ばれても一向に気にならないらしい。一瞬耳を疑った笙子も、どうにか顔に出さずにすんだ。社長の親族と随分と気軽に話すこの早坂と言う男は、一体何者?
笙子を紹介した後も、何やら無駄話までしている。
「じゃあ、笙子さん。頼んだよ。」早坂は結局何の説明もせずに笙子を置いて出て行った。
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ベッドに優しくおろされて、笙子は半分戸惑いながら囁いた。
「笙子一人抱えられなくてどうする。」
そこはかとなく包容力を感じさせる言葉。
酷い男。
最後の最後にこんなことを言う。
「ありがとう。」
この言葉にすべてを託した。明日の朝、最後の言葉を告げる前に、どうしても感謝の言葉を伝えたかったから。
東吾は、皮肉るように笑みを浮かべて、笙子に返す。
「いつもこのくらい素直だと楽なんだがな。」
東吾のその憎まれ口につきあう。
「おとなしい私は好みじゃないんでしょう?」
「それは、ある意味正しいな。」
「東吾?」
「ん?」
「抱いて。」
「珍しいこともあるんだな。」
「だって、夕べ・・・。」最後だということを感じさせないために、別の理由を告げる。
「悪かった。思ったより疲れていたな。」
「いいの。その変わり・・・ね?」
「これでも結構疲れてるんだがな。」
そう言いながらも、東吾は着ていたものをさっさと脱ぎ捨てていく。
その様子を視界に納めながら、笙子も一枚一枚無造作に体から引きはがしていった。
「笙子、どうかしたのか?」
「なぜ? なにが?」
「いつもとどこか違う。」
「私が、東吾を欲しいと思うのはいけないの?」
「いや、最高にそそる。」
「それなら、いいじゃない。私にも触れさせて。」
笙子は何かを言いかけた東吾の唇を引き寄せ、しっとりとやわらかい唇を寄せた。半身を起こしたままの笙子に覆いかぶさってくる体が熱い。
笙子を支えながらゆっくりとベッドに倒してくれる。
肌と肌が惹き合うように重なる。
笙子はなにものにも代え難いこの瞬間を受け止め、深い吐息をもらした。
「東吾の体、熱い。」
「そうか?」
「ん、すごくイイ。」
「それだけで、満足されても困るけどな。」
「ばかね・・そんなこと・・・。」
東吾がいきなりキスをする。「俺はこっちの方がイイ。」そういいながら何度もキスを重ねる。
「とうご・・・」
「疲れてるんだろう。しゃべらなくていい。」
「とうご。」
「なんなら寝ててもいいぞ。」
「そんなことできるわけないでしょう?」
「できたら困る。」
「じゃあ、なんでそんな・・・」
東吾の指に唇を塞がれる。「笙子を寝かせない自信ならたっぷりあるから、安心しろ。」
「もう・・・。」
笙子を興奮させるとわかっていて妖しげなことを言う。確かに、東吾の言葉にこれから得る快感を思って体に火がつくのがわかる。
それを感じ取って薄くため息をついた笙子の唇に、東吾の指が割り込んできた。
ひっそりとうなじに舌を這わせながら、「指、なめて」と囁く。
その言葉に入り込んできた長い指に舌を絡ませて愛撫した。1本が2本になりやがて3本になる。その全てを舌で優しく包むように愛撫した。
含みきれなくて口を閉じれないでいると、東吾が溢れる唾液を吸いとるように口づけてくる。東吾の舌が唇の端にあふれたそれをなめとり、さらに唇を愛撫するようにゆったりと口づけてくる。それからやっとゆっくりと指を引き抜き、熱い舌にかえる。笙子の舌との戯れを堪能すると、また指にかえ、舌はあごをつたい、首筋をおりていく。
「・・・ん」
東吾の指が、言葉を邪魔する。東吾の熱い唇は今や胸のふくらみに届き、興奮する先端にたどり着く。言葉を出したくても出させてもらえない指に、軽く噛み付いた。
その合図を受け取った指はそっと離れていった。
「・・・とうご・・・」
「なに?」
「だめ。」
「だから、なにが?」
笙子の柔らかな膨らみを手で唇で舌で堪能しながらささやき返す。その吐息にさえ敏感に感じてしまう。
「今日はダメ。」
「欲しいか?」
「お願い・・・」
その言葉が終わらないうちに、笙子の中は東吾の燃えたぎる欲望で満たされた。たった数日前に感じ取っていたはずのことでも、東吾の熱さを受入れるたびに記憶を新たにしてしまう信じられない快感。そして充足感。
今も、ゆっくりと動き始めた東吾がもたらす熱は、笙子を限りなく熱い空間へと押し上げて行く。
灼熱の太陽が私を焦がす。
「とうご・・・イカせて、お願いだから・・・」
「笙子、そんなに煽るな。我慢できなくなる。」
「我慢しないで・・・。」
「しょうこ・・」東吾が笙子に応えて更に深くつながり、更に熱くうごめく。
それだけで充分だった。笙子の閉じられない口元からは、ため息なのか情欲の悲鳴なのかわからない、震えを帯びた細い声が漏れる。
肢体をうっすらと赤く染め、笙子の体が張りつめるのを感じ取った東吾は、笙子の絶頂をよりたかめようと知り尽くした技巧を施す。その刺激にも柔らかな体がこたえるのと同じように快感を得ながら、東吾が動き出した。そして柔らかく崩れ落ちた笙子の体に最後の熱情を送る。数秒のいい知れない興奮とやがて訪れる数秒の浮遊感。そしてえもいわれぬ快感。東吾は荒い息を吐きながら、ベッドに沈み込んだ笙子の肌の上に倒れ込んだ。
力なく横たわる笙子の耳元で、やっと発した言葉は、「あんまり煽るな。心臓に悪い。」だった。
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仕事が終わるのは深夜になるという。それでも笙子を呼ぶ。
エリザベス・ジョーダンと一緒に仕事をしているはずなのに、当たり前のように笙子を呼ぶ。
彼女は、どう思っているのだろう。かつての恋人、今もそうかもしれない男が、面影の重なる女性を求めることを。
笙子がそう感じたように、彼女だって何かを感じたはず。笙子に何かを。
そう思うと居てもたってもいられない。通話を切った携帯がまだ手の中にあるのを見て、思わず捨てるように放った。運が良かったのか悪かったのか、それはラグの上に落ちてそこにとどまる。
いっそ壊してしまおうかとも思う。
が、それでは何も変わらない。携帯一つ壊したところで、この思いは晴れはしない。
昼間何度もそう思ったのだから・・・。
朝から、携帯の電源を何度も落とした。落としてはまたONにする。それを繰り返し、結局は東吾の電話を受けた。
東吾の怒りを恐れたからではなく、東吾を待っていたから。
引きずられるように始めたはずの関係が、そうではなくなっている。笙子のなかで生まれた感情は、知りたくもないものばかり。
私は東吾を求めている。東吾の強引な力を、尽きない情熱を、力強い抱擁を。
体だけが求めているのだと、何度も思おうとした。慣らされた体が欲しているのだと言い聞かせようとした。昨日までだったらそれで納得させられたかもしれない。
でも、もう無理。
期せずしてそれを東吾が証明してしまった。
トラブルを抱え、急な出張も2日でとんぼ返りし、疲れて睡眠が必要なはずの東吾は、笙子を求めてやってきた。一人でくつろげるベッドがあるのに、狭いベッドで笙子を抱いて眠るために。
結局何もしなかったのは、東吾の疲労の方が勝っていたからかもしれない。ただ、笙子に感じられたのは、東吾は最初から抱く気がなかったように思えたこと。
でもそれに不満は全くなかった。朝方、眠る東吾を見ていたとき、本当にゆっくりと休ませてあげたいと思えたから。
昨夜の苛立も、朝の東吾の言葉も、気づいてしまった思いに全部吹き飛ぶ。
気づいたからこそ、気づいたのは、これ以上続けられない、ということ。
本気になってしまった愛人なんて・・・お笑いぐさだ。
そう思えたから、電源を落としてしまおうと思い、実際にそうしてはまたONにするのを繰り返した。東吾との接点を切り捨てたい。でもたかが電話一つで切れるものでもない。その逡巡を幾度も幾度も繰り返している。
終わらせるには、携帯の電源ではなく、言葉が必要。果たしてその言葉を言う覚悟があるのかどうか、告げる勇気があるのかどうかすらわからない。
東吾のマンションに着いたのは10時を過ぎたころ。明かりのついていない東吾の部屋に入るのは珍しくない。
ベッドは数日前、東吾が夜半に成田に向かった朝に笙子が整えたままだった。
キャリーバッグがクロゼットの前におきっぱなしで、今朝着ていたスーツがベッドの上に無造作に放ってある。クリーニングに出すつもりなのかどうかもわからないまま、それをハンガーにかけておいた。
それから笙子の荷物がおいてある部屋に入った。
全部持って帰るつもりでいた。大きめのトートバッグに今夜と明日の朝には不要と思えるものを詰めて込んで行く。もう11月も終わろうとしているのに、夏物があることに手が止まる。
9月に思いもしない再会をし、動揺と後悔で戸惑い続けた日が思い出される。あれから幾つもの夜を重ねた。そして、今日いきなり自分の本心に気づいた訳ではないことを、思い知らされる。きっとずっと最初の時から、東吾にどうしようもなく惹かれていたのだと思う。
手にしていたパウダーブルーのブラウスに涙が落ちた。その小さな水滴を吸収した布が色濃く変わるのを見つめる。それはどんどん広がる。ポタポタと流れ落ちる涙が笙子に見せつけるのは、東吾への断ちがたい思い。昼間は一滴もこぼれなかった涙がどんどん溢れてくる。その涙を、化粧が落ちるのもかまわずに手にしていたブラウスで拭った。
東吾が戻ってくる前に、涙のあとを消さないと・・・。
笙子が最も嫌いな「女の涙」、それを東吾に見せる訳にはいかない。
12時を過ぎた頃、東吾は帰ってきた。笙子はソファでうたた寝をしていて、東吾が側に立つまで気づかなかった。
「遅くなって悪かったな。」
東吾の声には、今朝のような怒りは感じられない。いつものようにどこかからかいの含みがあって、なおかつ今は優しい響きがある。
「いいの、仕事なんだから。気にしないで。」
それに返す笙子の言葉は気遣いのこもったものになってしまう。それは、もう以前の笙子には戻れない響きが含まれていて、笙子には自覚がたっぷりあるだけに良くわかった。
東吾はそれに気づいただろうか?
見上げた先の東吾は、今朝送り出したときよりは当然のことながら疲労が見える。だが、昨夜のような険しい表情が見られない。
それが、笙子がここにいることへの安堵がもたらしたことであればと願う。
が、それも今宵限り。
上着を脱ぎ捨て、ネクタイをゆるめ抜き取るのをみていた。
その笙子の視線を感じ取っていたのか、東吾はワイシャツのボタンをいくつかはずすと、そのまま笙子に覆いかぶさってきた。笙子の頬を包み込み、間近に笙子を見つめる。
「先に寝てれば良かったのに。」
「そんなこと・・・」 できない。愛人なんだから。
「俺より笙子の方が疲れてるみたいだ。」
「変な格好で寝ていたから・・」
「ちゃんと寝かせてやる。」
そういうと、東吾は笙子をすくうようにソファから抱き上げた。
「きゃ」
「掴まってないと落とすぞ。」
「やだ、歩けるわ、そんな。」
初めてちゃんと抱きかかえられた。ほんの少しの距離なのに、それが例えようもなく嬉しい。
ベッドにおろされる直前まで、わずか数秒だったはずなのに、鼓動も脈拍もこれまでに一度も感じたことのない未知のリズムを刻んでいる。
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東吾はいつにない優しいキスだけで、それ以上は触れてこなかった。「ベッドから落ちないようにしないとな」と言って、笙子のおなかにまわした腕でしっかりと抱き込み、二人してくの字になって横になる。背中に感じる大きな体の熱を感じながら、規則正しい寝息が聞こえてくるまで、笙子は眠ることができずにいた。
明け方、東吾が動き出した。笙子を抱えたまま動くものだから、寝ていられない。
「東吾、離して。」
「だめだ。」
「だって・・」
「ここにいろ。」
そういって東吾は笙子を体の上に引っ張り上げた。仰向けになった東吾の上にいると、とっても落ち着かない。
「ねえ、私起きるから。」
「だめだ。」
「ねえ・・・」
「うるさい。」
「・・・」
それっきり東吾は何も言わなくなった。寝ているのかとも思えるし、ただ横になっているだけのようでもある。
笙子は、いつもと違う角度から東吾の顔を見ていた。ひげが伸びていて痛そう。昨夜よりは顔がすっきりして見えるから大分疲れはとれたのかもしれない。
でもまだ6時。あと少し寝かせておいてあげたかった。しばらくたって、東吾の呼吸が深くなったのを見計らってそーっとベッドから、というか東吾の上からおりた。
当然、東吾は起きた。
「勝手に消えるな。」
「だって・・・」
「全くツベコベいう奴だな。」
今度こそ東吾にしっかりと押さえ込まれてしまった。今度は東吾の下敷きにされたから、逃げようにもどうにもならない。
「もう少し、ゆっくり寝てもらおうと思っただけなのに。」
「笙子がいないとつまらないだろう。」
「・・・?」 そういう問題?
「7時に起こしてくれ。」
「これじゃあ、時計なんて見えない。」
「うるさい。」
あきらめて口を閉じた。
笙子も東吾にくるまれてもう少しだけ眠ることにした。この体制なら眠ることができる。
東吾の部屋のダブルベッドとは違って、シングルベッドだから、本当にぴったりと寄り添っていないと落ちてしまう。
どんな夜も、これほどくっついて眠ったことが無い。そして何もしなかった夜も無い。
しばらくして動き出した東吾は、笙子をベッドに残したまま一人おきだした。
ぬくもりを失った笙子は、一旦布団の中に潜り込み、それから出てきた。7時を過ぎている。
「仕事?」
「ああ、工場のプログラムをバージョンアップしないといけない。サーバを変える。」
シャワーから出てきた東吾は、昨日のスーツを無造作に着て、コーヒーを一口すする。
「ミス・ジョーダンは?」
「もちろん、組むのはリズだが、全く任せっきりにもできない。それに構築するにも手が不足している。」
「そう・・・」
「笹本を連れて行くしかないだろうな。」
「そう。」
「笙子?」
「なに?」
「悪いな。」
「何が?」
「やっと時間ができて、もっとゆっくりできると思ったんだが。」
ゆっくりって・・・何をするというのよ・・・。
「別に。」
「明日また中国に戻る。」
「そう?」 行くのではなく戻る?
「1週間くらいかかる。」
「そう。」
無表情な笙子を、東吾はほんの一瞬だけ睨んだ。それからまたいつもの顔に戻る。
笙子は、東吾のその一瞬の表情を見逃さなかった。
何かを含ませた視線が、絡むようで絡まない。ほんの数秒の空白。
「夕方連絡する。」
「わかったわ。」
コーヒーを飲み干した東吾は、それ以上の言葉無く出て行こうとする。が、玄関で振り返り、笙子のあごを持ち上げるとキスをしようとした。
正確にはキスをする直前で止まった。
笙子の唇から数センチ先に東吾の唇はとどまり、きつい視線が笙子の眼をとらえた。そして、いつになく怒りを帯びた低い声で囁く。
「今度、携帯の電源を切っていたら許さないからな。」
「な・・・」 キスをされる。強く噛み付くように激しいキス。
そして、また少しだけ離すと同じ声が囁いた。
「わかったな?」
それだけ言うと東吾は部屋を出て行った。
玄関に残された笙子は、東吾の怒りを肌で感じとった。同時にその怒りは自分自身に向き、それから東吾に向く。
何だって言うの?
確かに昨夜は電源を切って出かけた。でも昨夜は一言もそのことには触れなかった。
なんで今なの?
しかもあんな脅すような言い方。愛人にはそれで充分ということ?
いつでも東吾を待っていて、黙って受け入れろということなの?
無性に腹立たしいし、やりきれない。
東吾の当然のように押し付けてくる要求も。きっと言われた通りにするだろうと思える自分も。何もかも。
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「信じるか信じられないかではなくて欲しいかどうか、愛せるかどうか。不信感を抱きつつ愛する人もいる。激しい憎悪を感じながら愛する人もいる。笙子さんは信頼で男をはかる必要は無い。欲しいかどうか、愛せるかどうかで、はかればいいだけじゃないの?」
「心理カウンセラー?」
「笙子さん専任、どう?」
「もっと高くつきそうだから遠慮します。」
「やっぱりガード固いな。」
やっぱりって、何?
「帰ります。つきあってくれてありがとう。」
バッグから財布を取り出そうとした笙子を早坂が止めた。
「ここ、奢らせてよ。それに僕も出るから一緒に帰ろう。」
「お断りします。」
「そうはいかない。」
そういうと早坂はポケットから1万円札を出し、二人分のチェックをすませる。バーテンや他の客に、余分な娯楽を提供するつもりはないので、ひとまず従った。
外に出た笙子は3千円ほどとりだすと早坂に渡した。
早坂は、仕方が無いなという顔で受け取る。
「奢らせてもくれないなんて、固すぎ。きっと一人で帰るんだろうね?」
「私には私なりのルールがあるの。」
そう言うと笙子はタクシーを停めた。
「それでは、おやすみなさい。」
早坂を一人残して笙子は帰途についた。
12時に近い時刻、タクシーを停めた笙子はアパートの前に東吾がいるのに気がついた。
笙子がタクシーからおりるのをただじっと見ている。
笙子の背後でタクシーのドアが締まり、発進した。
「どこに行ってたんだ?」
東吾はスーツが汚れるのもかまわず、門扉の横の壁に寄りかかり、腕を組み軽く足を交差させたまま、全く動く気配がない。まるで笙子から近づくのが当然だと見なしているかのような態度。
笙子は問いには答えず、門扉までの短い距離を数歩で詰める。そして東吾の正面ではなく、門扉の前、東吾の横に立ち止まって、東吾を見上げた。
「どうしたの?」
「どこに行ってたんだと、聞いている。」
「ちょっと飲んでただけよ。」
その言葉が終わらないうちに、笙子はいきなり腕をつかまれ東吾に引き寄せられた。
かすかな香水の移り香が笙子を一気に包む。その香りに顔を背けた。
「一人でか?」
「あなたこそ、どうなの?」 東吾からは香水だけではなく、煙草とお酒のにおいがしている。滅多に煙草を吸わない東吾だが、全く吸わないわけではない。
「なに?」
「・・・」 勢いで言ってしまった言葉に、笙子は後悔して口をつぐんだ。
「笙子?」
「何しにきたの?」
「決まってるじゃないか。」
そういうと、いきなり笙子は東吾の腕の中に抱き寄せられキスを受入れさせられる。深く激しくむさぼるようなキス。その性急さにとらわれる。
ただ、しっかりと抱きとめられた腕の中にいて、かすかに漂う香水の香りに我慢できなくなった。笙子は東吾から離れようとして、もがいた。
東吾は、その笙子の行動を意に介さないようで、なおも強く抱きしめる。そして笙子の抵抗を封じ、強く荒々しくキスを続けた。
「ん・・・」 息苦しくなって笙子がかすかな悲鳴を東吾の口の中でもらすと、やっと笙子の唇は解放された。
「笙子?」
東吾は、何かがいつもと違うと気づいたのか、笙子をじっと見つめる。
「どうした?」
「・・・いや。」
「何が?」
あのひとの移り香が嫌だと、言えれば良かった。でも言えない。変わりに口から出てきた言葉は、
「一人じゃないわ。」
「?」
「一人で飲んでたわけじゃないわ。」
東吾は、眼を合わせない笙子の顔を上げさせた。
「ほんのちょっと眼を離しただけなのにな。」 その少し自嘲気味の言葉が痛い。
「私は、自由よ・・・あなた同様にね。」
「それを疑った覚えは無い。」
「そう? それを聞いて安心したわ。」
「笙子が自由でなかったら、今頃はここにいない。間違いなく、俺のベッドの中にいたはずだ。」
「・・・」
「だから今日はここで我慢する。」
「東吾?」
東吾は、笙子の腕をつかんだまま部屋まで引っ張って行った。
「鍵」差し出された大きな手に笙子はキーホルダーをのせる。
なぜ拒まないのか、なぜ素直に従っているのか、考えたくなかった。
勝手に上がり込む東吾の後ろからついて行く。その東吾が、部屋の中程で振り返ると、思い詰めた顔をしている笙子を優しく包むように抱きしめた。
「悪かった。」
「・・・東吾?」
「あんまり寝てなくて、イライラしてた。」
そんな・・・簡単に謝らないでよ・・・。
「寝かせて、笙子の側で・・・」
私一人だけ何かを持てあまして、何かに脅えている。東吾には何も通じてはいない。肩の力が抜けるのがわかった。でも、それで良かったのかもしれない・・・。
東吾は、笙子の感情まで責任を負う必要がないのだから。
「ここで寝るの?」
「ああ、もう限界。」
「シャワーしてきて。」
「わかった。」
香水の移り香を消してきて、とは言えなかった。バスルームに向かう東吾が、とても疲れているのがわかったから・・・。
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昼過ぎ本社に現われた東吾の隣には、ものすごい美人が並んで立っていた。その女性は中国工場のシステム管理担当、エリザベス・ジョーダン。中国工場での東吾の後任。中東系らしいが、黒髪と黒い瞳というエキゾチックな雰囲気は残っているものの、全体はどうみても欧米人のそれ。長身で一分の隙もなく着こなしたデザイナーズブランドのスーツが、とても様になっている。
その女性を見て、笙子に似ていると思った人間が何人いたのかは、知りたくはなかった。勘違いや思い上がりではなく、きつい視線、その表情がなにかを思わせた。
そして瞬時にその女性が東吾の恋人だったはずだと、笙子は断定した。それは、だったのではなく、今もかもしれない。そう思わせる雰囲気が二人にはあった。
チームのみんなにエリザベスを紹介すると、東吾は笹本を交えてずっとミーティングを続けている。定刻を1時間も過ぎた頃、笙子は恵美にだけ声をかけてオフィスを後にした。
習慣になりすぎた週末の生活。そして約束の無い週末。
そろそろ潮時なのかもしれない。
なぜか笙子はやりきれなくて、一人夜の町に出かけた。何も考えていなかった。携帯電話は電源を落としたまま部屋においてきた。
別の誰かを求めたわけではなく、一人の時間を持ちたかっただけ。だから、近づいてきた男がいても無視した。わずらわしくなると、その店を出た。
そして、なんとなく足を向けた先は、東吾と出合ったバー。ドアの前で一瞬立ち止まった。入っていいものかどうかためらわれたものの、なにを怖じ気づいているのかわからなくなって、重厚なドアを押し開けた。
やめておけば良かった。ためらったのはきっと天の啓示だったのに・・・。
何度か入っているので、中に一歩踏み出す前に店内をザッと見渡した。そしてそこに見覚えのある背中を見つけて眼がとまる。
すぐに引き返そうと思ったのに、それより先に男の方が振り向いた。
明るいグレーのスーツに薄いピンクのシャツ、パープルのネクタイ。一介のサラリーマンとは思えないスタイルできめた男は、社長秘書の早坂。
しなやかな長身と少し栗色がかった長めの髪は、ややもすると、気障な水商売にもみえかねない。ただし、近づいてみると一見した派手さがすべて消え失せてしまう。早坂は恐ろしく冷たい眼をしている。美形といえる顔に冷たい瞳はクールを通り越して、冷徹で酷薄な印象を与える。
今は、その美形の顔が笙子をみとめて破顔する。
「一人?」
見つかってしまった。
「ええ」
「一緒にどう?」
「デートでは?」早坂のような男が、赤坂のバーに一人でいるはずが無いと思えた。
「ここはデート向きじゃない。」
確かに、ここは若い女性を伴うには重厚すぎるし、クラシックすぎる。大人の社交場という表現がシックリとくる。エレガントでレトロなたたずまい。
笙子は黙って早坂の隣に座り、カクテルをオーダーした。
「ここ笙子さんのお気にいり?」
名前で呼ばせることを承知した覚えは無い。
「やめて。」
「何を?」
「名前で呼ぶの。」
「いや?」
「ええ。」
「特別な人用?」
「・・・」
「僕も特別にしてもらおうかな。」
カクテルのグラスを持とうとした指先がほんの一瞬止まったかもしれなかった。
「なぜ複数形なの?」
「誰か他に特別の人がいるから、嫌なんでしょう?」
「・・・」
「だから。」
「婚約者さんは?」
「へぇ、知ってるんだ?」
「知らないわ。」
「いいよ、じゃあ僕の秘密を一つ教えておこう。」
早坂は、何を企んでいるのか。聞きもしない秘密を教えようとする。
「私がそれを知っても意味が無いわ。」
「そんなことない。」
「そう?」
「そう。これは笙子さんには役に立つ秘密になるはず。」
「役に立つ?どういう意味?」
「いいから。」そういって早坂が耳もとで囁いた。
驚いて、早坂に振り返った。
「・・・」言葉にはしなかった。ただ、笙子が衝撃を受けたことは充分に伝わった。
「それで、私にどうしろと?」
「いや、笙子さんって呼ぶだけ。」
「対等の価値?」
「僕にとってはね。」
「・・・」
「なかなかでしょ?」
「使い方を知りたくはないわね。」
「そう?」
早坂は気障にも見える微笑みを見せただけだった。
無言のまま、それぞれのグラスをあけながら、やっと次の言葉が出たのは2杯目をオーダーしてからだった。
「笙子さん、だいぶ恨まれているね。」
「関係ないわ。」
「同感。」
「じゃあ、ほっとけば?」
「そうだね。一番簡単なのは、笙子さんが誰かと特別な関係になってくれるのが手っ取り早いんだけど。」
ツキンと何かが刺さる。
「無理ね。」
「そうかな?」
「私の名前だけでは見合わないと思うから、教えておくわね。私は男を信じていないの。だから不要なのよ。」
「信じられないのではなくて、信じていない?」
「そう、信じたいけど信じられない、というのとは別よ。」
「・・・」早坂は笙子の顔をじっと見て何かを考えている。
「信じていないけど欲しいってこと? 必要悪?」
「そこまで酷くないつもりだけど。」
「男としてみるからじゃないの? 自分の半身と思えば愛せるかも。」
「愛の話だった?」
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夜半、かすかな電子音に目覚めた笙子は、その音が携帯のマナーモードによる振動音だと気がついた。
鳴っていたのはナイトテーブルにおかれた東吾の会社支給の携帯。無視するわけにもいかない。例え夜中だろうと。東吾を起こすべきかと逡巡している間に、普段なら一度寝入ったら滅多に起きない東吾が、うなりながら動いた。電話の音には反応するのだなと、笙子は裸のままの東吾が電話に腕を伸ばすのを見ていた。
「はい。」 あらずいぶんと寝起きがいい。
笙子が寝ている東吾を起こした時は、思いっきり不機嫌で噛み付かれそうなのに。
裸の背中を見つめながら、東吾の様子を見ていた。
「Hello, yeah, it's Togo. Riz?」 英語?
「・・・」
「When?」
「・・・」
「OK」
「・・・」
「I'll be there soon.」
「・・・」
「See you later. Bye.」
東吾は電話を切った途端にため息と共にベッドにバフっと倒れ込んだ。
「笙子、今何時だ?」
「なんで私に聞くの?」
「起きてたから。」
「起きてたんじゃなくて、起きたの。」
「あー」
「どうしたの?」
東吾は携帯の液晶で時刻を確認すると、また一言うなった。
「工場でトラブルだ。」
「工場って・・・中国の?」だから英語だったのね。
「これから行ってくる。」
「これから?」
「8時のフライト。」
「今何時?」 逆に笙子が聞いた。
「2時。」
そういうと東吾はクルっと寝返りを打っていきなり笙子を抱きしめた。
「とうご、なに?」
「ん、ちょっと笙子を抱いておこうと思って。」
「なん・・・で・・・」
「すぐ帰れないと困るから。」
「そういう・・・」
「大丈夫、さっき死ぬほど抱いたばっかりだから、これ以上しない。」
そういうと東吾は笙子を腕の中に抱き込んで、髪の生え際や瞼にキスをする。
ゆったりと抱きしめられた。
こんな風に包むように優しく抱きしめてもらうのは、気恥ずかしくてこそばゆくて、笙子はみじろぎした。が、ただ抱くだけといった男の体が反応している。
「東吾?」
「ん?」
「なんだか・・・」
「んー悪い、やっぱり駄目だな。笙子明日仕事がんばれよ。」
そういうと、笙子の下半身に手を這わせて触れてくる。
ただのハグのはずだったのに、触れ合う肌が反応してしまった。下半身に感じる東吾はすっかりその気だ。
「ダメかも・・・」
「そんなことない。ちゃんと俺を待ってるみたいだ。ほら。」
そういうと、東吾は笙子の中心に触れ、濡れはじめたそこを刺激する。
「やだ・・・」 笙子は自分の体に、このときばかりは羞恥心がわいた。寝入る前にしっかりと抱き合って、思いっきり満足したはずなのに。
指の刺激はすぐに東吾自身にかわる。東吾がゆっくりと入ってくるのを敏感になった肌で感じ取りながら、自分の体が尽きない欲望に支配されていることを痛切に感じた。
「笙子・・・気持ちいい。」東吾がうなりながらゆっくりと動き出す。笙子の頭を抱え、腰の動きに合わせるようにゆったりと笙子にキスをする。額に触れた唇が眉尻から頬にふれ、ゆっくりと鼻の頭をかすめる。それから左の頬に移動して耳まで辿り着くと、笙子の小さな耳をまるでおいしそうな食べ物でもあるかのように口に含む。
「う・・・ん」笙子がもらした小さな声を楽しむように熱い吐息を吹き込み、「これ好き?」と聞いてくる。
「と・・・うご・・・」
「そんなでもなかったか? じゃこれは?」 そういうと耳たぶだけを口に含み、舌で裏側をあやしくなぞる。
「あ・・・ん」
「こっちのほうが良かった?」
まるで悪魔だ。深く繋がった下半身をなおざりにして、笙子が弱いとわかっているところをもてあそぶように攻める。東吾のいたずら心が発揮されるときは、笙子がどんなに懇願してもイカセテくれない。
「とうご・・・そんな・・・」
「そんな・・・なに?」
「時間あるの?」
笙子はわざと現実的な問題を持ち出した。意地悪な男を懲らしめるために。
「嫌なこと言うな。せっかく楽しんでいるのに。」
「だって・・・」
「いいから、黙って感じてろ。」
そういうと東吾は唇をうなじから肩へとすべらせ、それから喉元へともどり、ゆっくりと顎をつたい唇に辿り着く。笙子がその熱い吐息を受け入れようとするのを小さく微笑んでかわす。深く繋がるキスを待ち受けていた笙子をじらし、そのまま鼻の頭に舌を這わせる。それからゆっくりと笙子の鼻に自分の鼻をすりよせた。唇と唇の距離がまた肉薄する。
深く熱くなった吐息が混じり、ゆっくりと合わさる瞬間、「笙子、感じてる?」と聞いてくる。そんなこと、笙子の体が示す反応でわかりきっているくせに。ため息まじりに軽くいなすようにささやき返す。「たぶん。」「そ」その返事に不満な様子は感じられなかった。
合わされた唇が、ゆっくりとそして性急に激しさをます。それに合わせて東吾の動きが激しくなる。
息を呑むことも吸うことも全てが東吾の思うがまま。笙子の力が及ぶのは、ただひたすら東吾の情熱を受け止めて燃え上がり、果てる瞬間の絶頂を歓喜と共に受け入れる瞬間だけ。
その笙子の快感を受け止めたときだけ、東吾は笙子に屈服する。
翌朝、笙子は怠惰な疲労を全身に感じながら会社に向かった。仕事を平然とこなすのが困難な1日を何とかやり過ごした。
その原因を作った「仕事頑張れよ」といった男は、夜半に笙子をベッドに残してシャワーを浴び、荷造りをするとタクシーを呼び、最後に半分眠っていた笙子に軽くキスをして出ていった。
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あとがき?
第二部初のホットなシーンをお届けしました。
って、ただ書きたかっただけなんだけど。
めちゃホットな東吾を・・・(#^.^#)
いや、まあそれだけじゃないんですけどね。
でも、これだけ読むと、「やっぱそればっかじゃん」って100%思うわな。
追記:英語のチェックを下さったKumi様ありがとうございます。
やはり高校生の英訳ではダメでしたね? 訳者にツッコミ入れときます。
「ご高説、確かに拝聴したわ。それでは失礼。」
笙子は、顔を真っ赤にして興奮している女性をロッカールームに残したまま、通用口から退社した。その顔には、以前のような無関心と無表情という仮面をつけて・・・。
確かに牧野田以外の視線もちゃんとわかっている。かといって、誰一人、笙子を口説いたものはいない。飲みにいこうや食事にいこうという定番的な言葉は言われた。その手の誘いは確かにあったけれど、誘われた時に仕事があるし、時間がないのでとハッキリと断ってきた。そしてそれ以上の言葉は聞いたことが無い。
要するに、誰からも口説かれていないのだから、断っても受け入れてもいない男のための自己弁護など、誰のために誰にしてやるというのか。しかもそれで八方美人とまで言われたのでは、立つ背が無い。
少なからず嫌な思いをさせられた笙子は、その後も幾日かは何らかの視線を感じ取っていた。それでも全てを無視し続けた。
数日後、自分の部屋から出勤した笙子は、エレベータホールで男性社員の一人に声をかけられた。9時始業の会社で8時10分は充分に早い。朝早いこともあって周囲に誰もいなかったのが救いだった。
当然、それを承知して声をかけてきたのだと思う。
「遠山さんってさ、男をポイ捨てするってホント?」
「え?」
朝からいきなりの発言に驚いた。しかも、それは過去のことを言い表しているような言い方。
声をかけてきた男については知っていた。これまで笙子を誘ってきた男ではないことは確かだ。
経営企画室で社長秘書をしている早坂。以前は企画開発部にいた。牧野田がそう話していた覚えがある。彼が笙子の火遊びを知っているというのか・・・。
それともここ数日の周囲の騒がしさをさしているのか。
内心穏やかではないものの、平静を保って応えた。
「ずいぶんと、派手な噂ね。」
「ふーん、ホントなんだ。」
「な・・・」
「安心して、僕は立候補はしないから。」
「・・・では、何をすると?」
「ほう、なかなか面白そうだ。」
「一体何?」
「今度ゆっくり話そう。」
「結構です。」
「僕の立場、わかってほしいな。」
「あなたの立場?」
「そう、こういうことを納めるのが仕事でね。」
一瞬、笙子は早坂を見つめた。それから肩の力を抜いて言葉を返す。
「無意味な噂に踊らされるのが社長秘書の仕事なら、この会社も考えものね。」
早坂は笙子の言葉を一瞬真顔で受け止め、すぐに吹き出した。それから我慢ならないという様子で大笑いをしはじめる。
いくら何でも朝っぱらから大笑いされるような場面を、人に見られたいとは思わない。運良く開いたエレベータに急いで早坂を引っ張り込み、8階とCloseのボタンを押す。8階は役員用フロアなので、早坂もそのフロアのはず。
エレベータに誰も乗ってこないことを祈りながら、笙子は笑いをこらえている早坂に声をかけた。
「あなた、早坂さんですよね? 一体なに?」
「いや、失敬。あまりにど真ん中で、久しぶりに当たりだったんだ。」
「・・・」 笙子は早坂の考えていることがわからないために、言葉を発するのをやめた。
「怒ってる?」
「・・・」
「悪かった。どちらにしても、遠山さんとは一度話したいと思っていたんだ。今日の昼、一緒にどう? おごらせてよ。」
「いいえ、お断りします。ランチも、ごちそうして頂くのも両方とも。お話が業務上のことでしたら休憩時間以外にデスクにご連絡ください。仕事以外に私にはお話しすべきこともありませんし、早坂さんとお話したいこともありません。失礼。」
そう言うと、笙子は8階で停まったエレベータから、早坂より先に出て9階への階段を上がった。
結局早坂が何を言いたかったのかは聞かなかった。もしかしたら致命的なことかもしれない。それでも何か間違って情報を与えかねない会話をするのは遠慮したい。会話がなければ、噂は噂でしかない。なんらかの言葉が意図しない命を得てしまうようなことだけは避けたかった。
9階の階段を上がりきった直後、笙子は思いっきり腕をつかまれた。
今度はなに?
そう思って見上げた相手は倉木東吾。笙子をこんな風に我が物顔で扱うのはこの男しかいない。
「なに?」
「ちょっとこい。」
プロジェクトチームのオフィスと会議室が設置される前は多目的ホールだった9階。いまでも半分になったホールが存在している。そのホールのなかへ引っ張り込まれた。
「どうしたっていうの。誰かが来たら困るでしょう?」
「困るのか?」
「ええ。」
「そうか。」
「で、なに?」
倉木はしばし無言だった。その間ずっときつい視線で笙子を睨んでいる。一瞬だけ強い怒りを込めた何かが見えたと思ったのに、直後に倉木は何も言わずに出て行ってしまった。
一体なに?
その日、東吾は何も言わず、ただ帰り際の笙子に部屋で待ってろ、と言っただけ。
その言葉に素直にしたがっている自分にあきれながら、笙子は東吾のマンションに向かった。1時間ほどで帰ってきた東吾は、結局何も言わなかった。
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それまで、情報システム部の砦の奥でひっそりと日々の業務をこなしていた笙子には、社内に親しい友人も少なく、伊達眼鏡とひっつめ髪で地味にまとめ、目立たない存在に徹していた。笙子が会話をするのは同じ部署の社員と、同期入社の数人のみ。
笙子の存在は、藤崎精密の中では空気のようなものだった。
恐らく、他部署の社員にはほとんど存在を知られていなかったはず。
その笙子が、倉木のプロジェクト参加を機に社内の半数と会話をする立場に変わった。
伊達眼鏡をはずし、髪をおろした笙子は、印象的な眼と媚びない姿勢が雰囲気をつくり、目立っていた。
プロジェクトチームは、初期段階に各部門から意見や希望を聞き取るミーティングを、ほぼ毎日セッティングしていた。その全てに笙子は参加している。笙子にとっては、藤崎精密という会社組織を改めて知る良い機会となり、同時に各部署の社員ともかなり交流を持つことにもなった。
そんな初期の頃、パソコンさえあれば生きていけるエンジニア達を放って一人ランチに出た時、通用口で出くわした牧野田にランチを一緒にと誘われた。午前中のミーティングで顔合わせたばかりで正直驚いたものの、格段思うところも無かったので応じた。
今では、1歳下の牧野田は気さくな会話のできる、体の関係のない男友達になった。そんな存在ができたことにすら感慨を覚えた。
万が一、牧野田が密かに笙子を狙っていたとしても、笙子には全く問題がなかった。絶対誘いに乗らない自信があったから。
牧野田との交流や、その後のミーティングで多くの社員と面識を持って以来、笙子はかなりの数の社員と会話をするようになっていた。
もちろんその中には、ある種の視線も含まれている。
笙子は、ひそかに注目されていた。気の強さと独立心旺盛な精神が作り出す、ややきつい性格も障害にはならなかったようだ。夜の街を徘徊していた時と同じ様な、男性からの肌を刺すようなピリピリしたものを感じる時もあれば、逆に同性からのきつい視線を感じる時もある。
男性の視線には覚えがたっぷりあるので、無視した。同性の眼には、何も気づかないフリをしてニッコリと微笑み会釈をして返した。相手に嫌悪の表情が浮かんでも、気づかないフリをした。以前だったら、絶対あり得ないのに。
なんで、こんなことする必要があるんだろう・・・。そう思わない日はないくらい最初の頃は思い続けた。だが、すぐに仕事のためだと、認識した。
笙子が原因でプロジェクトに多少なりとも不便さを強いることはできない。
どの部署にも女性社員がおり、部長や課長の補佐についているのはほとんどが決まって女性だ。ミーティングに参加するのも男女ほぼ半々で、女性社員をイタズラに刺激すべきではないと、世渡りべたなはずの笙子でさえ、理解していた。
「遠山さん、ランチじゃなくてさ、今度は夜ご飯一緒にしようよ。」
なんとも屈託の無い言い方で牧野田は誘いかけてくる。
「企画開発部のエースにそんな余裕があるとは思わないけど?」
「そんなことないですよ。僕なんかうちのチーフに比べたらヒヨッコ同然ですから。」
「それでも、定時に企画開発部の席が空いたのは見かけたことがないわ。仕事に支障をきたすような時間を無理に作られても、私は迷惑よ。」
「じゃあ、仕事の無い日ならOK?」週末のデートをそんなに軽くいう?
「それが、わざわざ休日に外出するほど価値のあるものとも思えないけど。」
「変な断り方だね。」
「そう?」
「笙子さん。ねえ笙子さんって呼んでもいい?」
「あまり相応しいとは思えないわ。というか駄目。」
「あー、ガード固いな、ほんとに。フツーはそこでにっこり笑って“いいわよ”って言うんじゃない?」
「私は嫌なの。」
「全く・・・。」
そういいながらも、牧野田は全然懲りていない。何度か同じような会話をしている。
どちらかというと人懐っこい犬みたいな顔をして誘ってくるので、警戒心がわきにくい。牧野田は、笙子の『NO』の中に強い拒絶が含まれていないことを察知している。笙子は友達だと思うからごく軽い気持ちで会話をしている。牧野田が笙子を誘うのはこの数ヶ月定番になってもいた。
ささやかなトラブルが発生したのは、倉木が最もハードな日々を過ごしていた11月に起きた。
仕事を終えた夜8時頃、オフィスを出た笙子はロッカールームに入った。その時間でも社内の大半は電気がついている。ロッカールームには数人帰り支度の人がいた。
笙子が着替えてロッカーを閉めたとき、後ろから声をかけられた。
「遠山さんですよね?」
「そうだけど?」
笙子に声をかけてきた女性は、22〜23才くらいでまだ若い。今年の新入社員あたりか・・。
瞳を大きく見せる今時のメイクをした顔は、流行のスタイルがよく映えている。かわいい部類。ふわふわしたピンク色が似合いそうな、まだ子供っぽい感じが残っている。
「あの、牧野田さんを解放してほしいんです・・・。」
また、いきなり驚くことを言ってくれる。牧野田の恋人?
「牧野田君を拘束している覚えは無いけど?」
「遠山さんがハッキリ断ってくれないから・・・」
「あなた、牧野田君の・・・?」
「・・・ええ。」
「ということは、正確にはそうではないということかしら?」
「どうでもいいでしょう。」
「どうでもいいことは無いわ。あなた、失礼、お名前存じ上げないのでこう呼ばせて頂くけど、あなたが誰かわからないし、言いたいことも良くわからないわ。根本的に言うべき相手が違うんじゃないの?」
「でも・・・」その子は涙を浮かべて、次を言う前に泣き出してしまった。
もう、この程度で泣くくらいなら、けんか売ってくるんじゃないわよ。涙が効くのは、だまされたい男とそれを利用したい男だけよ。全く何考えているの。
笙子は、面倒くさいことになったと内心舌打ちをする。
「あなたが言い出したのよ。泣いていても始まらないでしょう?」
笙子が慰めるべき相手でもないし、そのための言葉も持っていない。身に覚えの無いことで自分を弁護するのも疲れる。だから、笙子は帰ろうとした。
「失礼するわね。」
笙子が一歩踏み出したとき、泣いていたわりには強い口調の言葉を浴びせられた。
「こう思っているのは私だけじゃないから。」
「・・?」
「他にもあなたのせいで辛い思いをしている人がいるのよ。」
「それで?」 笙子が視線を向ける。その視線で男達を遠ざけてきた強い視線。
「だから・・・、その・・・」 その視線にややたじろいでいる。
「なに?」 更に聞いた。
「色気振りまいて八方美人するの止めてください。」
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思った通り、葉月がデスクについて5分もしないで城嶋は現われた。まだ8時15分。
城嶋は葉月を見ると驚き、そして微笑んだ。
その表情をみてしまった葉月は心臓がトクンとはねるのを感じた。
知的でクールな印象の城嶋は、滅多に感情を表さない。
先週1週間で良くわかった。
「早いな。」
「はい。あのきっと課長は早くいらっしゃると思って。」
「敬語は不要だ。」
「でも・・・」
城嶋は葉月のデスクにコーヒーのマグカップがおいてあるのを見て、自分の手にしていたコーヒーショップの袋を見る。
「君の分も買ってくるんだった。そういうタイプだとわかっていたのにな。」
「あの・・・」
「明日は2つにしよう。シナモンは?」
カプチーノ? 「・・・はい。」
「よし。」
城嶋がやはり微笑んでいるような気がして、葉月はなぜか緊張した。まっすぐに目を向けられない。
「じゃあ、さっそく仕事にかかろう。助かったよ、早く来てくれて。」
城嶋はそれから、あれこれと葉月に用事をいいつける。出張報告、ミーティング内容の取り纏め、関連部門との連絡。メールだけではなく指定書式で提出したり受け取ったりするものもある。葉月は報告書の作成をしながら、何度も社内をいったりきたりした。相変らず城嶋からは業務内容のレクチャーを受けていない。仕方がないので、社内を移動する合間に書類を拾い読みした。やはりまだ未知の専門用語がひしめいている。
それでも柴崎と話したことで、どの分野の知識を吸収すべきかは把握していた。
金曜日も同じ調子だった。前日と違ったのは、城嶋がコーヒーを2つ買ってきたこと。カプチーノだった。
出張成果は、どうやらあったらしい。報告書に続けて出された資材部へのサンプル発注と研究所へのフィードバックレポートでそれと知れた。
しかし、これが実を結んだら一体どんなことになるのだろう。葉月のごく浅い知識でもそれが大きなことだと理解できた。
夕方、城嶋が葉月を呼んだ。
「これ起こしてくれないか?」
渡されたのはレコーダーとイヤフォン。
「残業、大丈夫?」
「大丈夫です。」
「じゃあ頼む。」
「わかりました。」
葉月が受け取ったのは、城嶋の覚え書きというか、発想や留意点など思い付いたことがあれこれ録音されたもの。脈略なく内容が変わるときもある。全部で40分ほど。
イヤフォンで聞きながらワープロソフトで入力していく。
城嶋の声は心地よかった。時に周りの騒音が聞こえる箇所もあった。疲れた声の時もあった。考えながらゆっくり話している時もあった。
様々なシチュエーションの声が葉月を包んだ。不思議な感覚のまま、全てを入力し終えた。モニターの片隅に表示されている時刻は7時10分。それから再生しながら入力した内容を照らし合わせて校正していく。単語がわからないために入力した内容に自信がないところにはマーカーをつけた。文章がわかりにくかったところには付箋をつけた。全部終わったのは8時に近い時刻。
「課長、終わりました。」
滅多にドアを閉めない城嶋の部屋は、誰もが安易に出入りする。仕事に差し支えないのだろうかと思わないでもない。
葉月は電話中でないことを確認してから、軽くノックして声をかけた。
「ああ、早かったな。」
「フォルダに転送しました。不明瞭な箇所にはそれぞれチェックをしてあります。」
レコーダーとイヤフォンを返しながら、葉月は報告した。
城嶋はキーボードをいくつか叩くと、フォルダを呼び出し、軽く目を通して頷いた。
「ありがとう。」
「いいえ。」
「今日はこれで終わりにしよう。」
「はい。」
「食事にいかないか?」
なんでそんないきなり・・・。
「いいえ。」
「凄いな。即答か?」 城嶋はなぜか楽しそうに答えた。
「はい。あまり良いこととは思えません。」
「上司が部下を食事に誘うのはそんなに変か?」
「・・・そういうことでしたら。」
城嶋は、葉月の返事に笑みをこぼした。
「下で待っている。着替えてきなさい。」
葉月は、小さく返事をして出ていった。
PCの電源を落とし、デスクの上をきれいに片づけて出て行くのを見送った。
城嶋が葉月に着目したのは、中国工場に毎月届くレポートを読んでからだった。いつもはパラパラとめくり、タイトルの気になった記事だけを拾い読みしていた。それがある時から読みやすい物に変わっていた。しかも段々体裁も良くなり、それからは毎月届くレポートをかかさず見るようにしていた。
編集担当が女子社員だと言われても特には驚かなかった。恐らく随所に行き届いた配慮がみられたことで、自ずと想像していたのだと思う。
但し、その編集者が入社4年目、しかも最初の3年が北アルプスの工場勤務だったことや高卒だということには驚かされた。
本社勤務1年で、ここまでマーケット情報を理解し編集できるとしたら、中々の逸材だと思えた。城嶋の評価はその時点で確立されていた。
それから1年、企画開発部に着任して、初めて前園葉月という女性を目にした。24歳にしては大人びて見えた。が、同時にとても幼くも見えた。
そして違和感を感じた。何かが気になった。
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